
封印された協奏曲と、残された協奏曲
バルトークのヴァイオリン協奏曲は二曲存在する。しかしこの二曲は、単に初期と後期の作品という以上に、彼が「モダンとは何か」をどのように捉え直していったかを、きわめて鮮明に示す対照的な関係にある。
1907年から08年にかけて作曲されたヴァイオリン協奏曲第1番は、生前に出版も初演もされなかった。若きバルトークが、ヴァイオリニストのステフィ・ガイヤーに向けて書いたこの作品は、私的な感情とロマン主義的な表現欲求が、ほとんど無媒介に音楽化された協奏曲である。一方、1937年から38年に作曲された第2番は、バルトーク自身が積極的に世に送り出した作品であり、20世紀音楽の中核に位置づけられてきた。
この「封印された第1番」と「残された第2番」の落差は、単なる成熟の差ではない。そこには、感情を完成へと導く音楽から、完成そのものを疑い、内部で停止させる音楽への、決定的な転回が刻まれている。
第1番 ― 完結するロマン主義
ヴァイオリン協奏曲第1番は、二楽章構成で書かれている。第1楽章は理想化された抒情に満ち、独奏ヴァイオリンは一貫して歌い続ける。第2楽章では舞曲的な要素が現れ、音楽は外向的な活力を帯びる。この二項対照は、ロマン主義的協奏曲の語法として、きわめて理解しやすい。
重要なのは、この作品が「宙づり」にならないことである。感情は提示され、展開され、最終的に昇華される。調性は機能し、形式は回収され、音楽は一つの完結へと至る。そこには未解決の問いが残されない。
この意味で第1番は、「冷えない抽象」に至る以前の音楽であり、そもそも抽象化を必要としない地点で成立している。だからこそバルトークは、この作品を公的なレパートリーとして位置づけることができなかったのだろう。それは彼自身が後に疑問視することになる、感情の完成を信じる音楽観そのものだった。
第2番が置かれた時代 ― 進歩への不信
ヴァイオリン協奏曲第2番が書かれた1930年代後半のヨーロッパは、「進歩」という言葉がもはや無垢ではいられない時代だった。ナチズムの台頭、各国の排外主義、文化を名目とした暴力の正当化。近代が掲げてきた合理性や発展史観は、現実の中で明らかに破綻しつつあった。
バルトークは政治的スローガンを音楽に持ち込む作曲家ではない。しかし彼は、進行し、解決し、完成へと向かう時間概念そのものに、深い不信を抱いていた。その不信は、直接的な否定ではなく、作曲の内部操作として現れる。ヴァイオリン協奏曲第2番は、そのもっとも洗練された実例である。
形式を壊さず、機能を止める
第2番は三楽章構成の協奏曲であり、外形だけを見ればきわめて古典的である。ソリストの要求に応じ、バルトークは伝統的な形式を採用した。しかし内部で起きていることは、伝統的な協奏曲の論理とは明らかに異なる。
第1楽章では、動機が高密度で生成され、変形され、再配置される。音楽は激しく運動しているにもかかわらず、どこにも着地しない。主題は提示されるが、安定した帰結点を与えられない。この過剰な運動による宙づりは、即興音楽におけるエリック・ドルフィーの『Out to Lunch!』が示した態度と驚くほど近い。解決可能性は常に示されるが、あえて解かれない。
第2楽章では様相が一変する。表層は静止し、和声は持続し、時間は引き延ばされる。しかし内部では、リズムと音色の微細な変化が過剰な密度で蠢いている。これは、マイルス・デイヴィス『Nefertiti』における、表層の固定と内部運動の過剰化と同型の構造である。動かないことで問いを持続させる音楽が、書かれた音楽の文脈で実現されている。
終楽章では舞曲的な活力が前面に出るが、そこにも最終的な安定は訪れない。音楽は終わるが、完了しない。形式的回帰は、解決ではなく、未解決のままの閉域として提示される。
冷えない抽象と身体性
ヴァイオリン協奏曲第2番が特異なのは、これほど抽象的な構造を持ちながら、音楽が決して冷たくならない点にある。独奏ヴァイオリンは常に身体的であり、リズムは舞踏的な感覚を失わない。
この身体性は、バルトークが長年にわたって民俗音楽を研究し、文化の混交と変異を知り尽くした結果でもある。彼にとって民俗性とは、起源や純粋性を保証するものではなく、むしろ安定を拒むためのエネルギー源だった。
ここで立ち上がるのは、「混ざったまま、解決しない」という状態である。異なる音楽語彙、異なるリズム感、異なる時間意識が、溶解することなく並置される。この感覚は、カツカレーカルチャリズムが肯定する混成と共存の思想と深く共鳴している。純化や統一を目指すのではなく、雑多な要素を同一平面上に置いたまま、冷えない温度を保つこと。その倫理が、この協奏曲の内部で精密に実装されている。
宙づりのモダンとしての協奏曲
こうして見ると、バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番は、モダンを完成させないための音楽であることがわかる。破壊によって自由になるのではなく、完成しすぎた構造の内部で、あえて止まる。進歩史観を否定するのではなく、弱める。解決を拒否するのではなく、延期し続ける。
第1番が私的感情の完結として封印されたのに対し、第2番が残されたのは、この態度こそが、20世紀後半において共有されうる思考の形式だったからだろう。ドルフィーやマイルスが即興音楽の領域で到達した「宙づりのモダン」は、バルトークにおいて、書かれた音楽の精度で先取りされていた。 ヴァイオリン協奏曲第2番は、ジャンルや時代を超えて、「完成しないことを選ぶ知性」の系譜に位置づけられる作品である。その意味でこの音楽は、過去の名作である以上に、いまなお有効な態度として、聴き直されるべきものなのだ。



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