
消せない痕跡、澄まない世界 ― ケントリッジにおける混合と余剰の倫理
カツカレーカルチャリズムが捉えようとしてきたのは、整合的に説明可能な多文化世界というよりも、説明しきれない混ざり方をしてしまった現実への肯定である。そこでは文化は計画的に配合されるのではなく、歴史的偶然や暴力、欲望や利便性によって、半ば強制的に同じ皿の上に盛られてしまう。味の相性が良いとは限らず、見た目も洗練されているとは言い難い。それでもなお、なぜか捨てがたく、食べ終えたあとに妙な満足感や記憶が残る — カツカレーカルチャリズムとは、そうした「うまく言えないが残ってしまう感触」を起点に、文化の混合、境界の撹乱、そして余剰を引き受ける態度を名指そうとする、やや遅れてきた概念装置である。
それは単なる多文化性の並置や、寛容の倫理を称揚する思想ではない。異質なもの同士が無理にでも同席させられ、ズレや矛盾、居心地の悪さを抱えたまま日常として持続していく状態そのものを、否定も浄化もせずに肯定する視座である。そこにある「美味しさ」とは、完成度の高さや洗練ではなく、雑味や濁りを含んだまま世界を引き受けたことによって生じる、事後的で身体的な幸福感に近い。

この枠組みからウィリアム・ケントリッジを捉えると、彼の作品はまさに「世界が混ざってしまった後」を生きるための実践として立ち現れる。ケントリッジの仕事は、完成されたイメージや明快なメッセージを提示することを目的としない。むしろ、生成と修正、忘却と残留、肯定と否認が絡み合う運動そのものを可視化することで、世界が一度混ざってしまった以上、それをなかったことにはできないという事実を、粘り強く示し続けている。その意味で彼の実践は、カツカレーカルチャリズムが重視してきた「プロセスを引き受ける態度」を、きわめて高い強度で体現している。
ケントリッジの木炭ドローイング・アニメーションは、映像表現でありながら、映像以前の「原初的な像」を呼び起こす。ここで言う原初性とは、未熟さや素朴さを指すのではない。それは、消去されるはずの痕跡が完全には消えきらず、行為の履歴が画面上に露出した状態を意味している。描く、消す、描き直すという単純な循環のなかで、消し跡やズレはノイズとして排除されるどころか、むしろ画面の時間性を支える要素として残り続ける。過去は完全には消去されず、記憶は摩耗しながらも沈殿し、歴史は常に訂正と上書きの連続として存在する — その認識が、技法そのものに刻み込まれているのである。

この状態は、文化が煮込まれ、痕跡が混ざり合い、決して均質化しないまま新たな形をとってしまう「カツカレー的混合」のロジックと強く共鳴する。そこでは純粋な起源も、完全な完成も存在せず、あるのは混ざってしまった結果としての現在だけである。
南アフリカ出身という背景もまた、ケントリッジの実践を理解するうえで欠かせない。アパルトヘイトという制度は、世界を分ける力が極端なかたちで制度化された歴史的事例であり、その後の社会には、分断の痕跡と未解決の緊張が深く刻み込まれている。ケントリッジはそれらを抽象的な理念としてではなく、寓話的でありながら具体的な身体感覚を伴う視覚形式として再構成してきた。彼の作品に登場する人物たちは、資本、権力、親密さ、欲望といった複数の層のあいだを行き来し、しばしば矛盾を抱え、時に破綻する。それは、単一の物語に回収されない世界を、その混乱ごと引き受けようとする態度の表れである。
カツカレーカルチャリズムが重視する「余剰」も、ケントリッジの作品には明確に存在している。消し跡や補筆の反復によって生まれる微細なノイズ、影絵の揺らぎ、動きの継ぎ目に残る曖昧な境界線。それらは通常、完成度を高めるために排除される要素と見なされがちだが、ケントリッジはそれを意図的に残し、作品の核心へと引き寄せる。文化的実践における余剰こそが、歴史の隙間に埋もれた生や記憶を浮上させるという認識は、カツカレーカルチャリズムの倫理と深く重なっている。
また、絵画、映像、アニメーション、演劇、オペラ、インスタレーションといった複数のメディアを横断する彼の姿勢も重要である。ケントリッジはメディアの純粋性を守ろうとするのではなく、むしろ境界を撹乱し、相互に侵食させる。その結果生まれる作品空間は、異なる時代、異なる場所、異なる感情や身体が同時に存在し、互いに影を落とし合う多層的なステージとなる。この混合への信頼は、煮込みや横断を価値とするカツカレーカルチャリズムの理念と極めて近い。

ここで新海誠の映像表現と対比すると、その差異はより明確になる。新海の映像が、光と情報を磨き上げ、世界を透明で結晶化した像として提示する方向へ向かうのに対し、ケントリッジは曖昧さや汚れ、摩擦、未完成性を抱えたまま世界を差し出す。前者が「世界を澄ませる」視線だとすれば、後者は「世界の濁りを引き受ける」視線である。この対照は優劣の問題ではなく、複雑化した現代世界を生きるための、異なる感受性の提示と捉えるべきだろう。
ケントリッジの現在性は、この濁りの肯定が、世界の複雑さに対してきわめて誠実である点にある。物語が簡略化され、輪郭が過度に明確化されがちな時代において、彼の作品は「世界は単純には語れない」「歴史は消去できない」「曖昧さは残り続ける」という事実を、身体的な重さとともに提示する。それは、カツカレーカルチャリズムが目指してきた、多層性と余剰を引き受ける倫理そのものである。
ケントリッジは、世界の分断と混合、傷と再生、歴史の重なりと個人の営みを、一つの画面の中で煮込みながら、あえて完全な調和を目指さない。混ざったままの状態を引き受け、その不完全さを持続させる姿勢こそが、現代における「カツカレー的な芸術」の、最も苦く、しかし最も深い満足をもたらす形態のひとつだと言えるだろう。



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