渦中に立つ盗用者 ― リチャード・プリンスとカツカレーカルチャリズム

盗用という態度から考える
リチャード・プリンスは、しばしば「盗用作家」として語られる。広告写真を撮り直し、既存のイメージをほとんど加工せずに提示するその方法は、倫理的・法的な議論を常に伴ってきた。しかしプリンスの重要性は、単にオリジナリティの否定や著作権への挑発にあるのではない。彼の作品が本当に突きつけているのは、デュシャン以後、ミニマリズムとコンセプチュアル・アートを経て完成してしまった「アートの成立条件」の内部で、人はどのような態度を取りうるのか、という問いである。
本稿ではプリンスを、批評的距離を保った観察者としてではなく、成立条件の渦中に深く巻き込まれた存在として捉え直す。その姿は、完成度の高い理論的体系ではなく、むしろ中途半端さや居心地の悪さを伴っている。その不安定さこそが、カツカレーカルチャリズムという比喩的文脈と強く響き合う。

成立条件の内部に生きるということ
二十世紀後半、美術は「何がアートをアートたらしめるのか」という問いを徹底的に洗い出した。デュシャンは選択によって、ミニマリズムは物の配置によって、コンセプチュアル・アートは概念によって、そしてブルース・ナウマンは行為や状況そのものによって、アートが成立してしまう条件を可視化した。この系譜の成果は明晰で、教育的で、再現可能である。その一方で、そこには欲望や快楽、恥や迷いといった要素が入り込む余地が急速に失われていった。
プリンスは、この地点を外から批評することができなかった作家である。彼は成立条件を理解していなかったわけではない。むしろ理解しすぎていたがゆえに、その外部に立つことができなかった。広告や大衆文化のイメージに反応してしまう自分自身を切り離せず、そのまま制作の前提として引き受けた点に、彼の特異性がある。
ナース・シリーズ ― 欲望の居心地の悪さ
プリンスの代表作として知られるナース・シリーズは、安価なペーパーバック小説の表紙イラストをもとに制作された。マスクを着けた看護師の姿は、匿名的でありながら強い性的含意を帯びている。しかしそれは洗練されたエロティシズムではない。顔は歪み、色彩は濁り、どこか不機嫌で、見る者に快い満足を与えきらない。
この中途半端さは偶然ではない。プリンスは男性的欲望に迎合しながらも、それを完成形に仕上げることを拒んでいる。好かれたいが、好かれきらない。欲望を提示しながら、その居心地の悪さを隠さない。この態度は、倫理的に安全な距離を取ることとも、無邪気に快楽へ身を委ねることとも異なる。彼は、わかっていてなお惹かれてしまう地点に、自分自身を置き続けた。


クーンズとの違い
同時代に市場と欲望を正面から引き受けた作家として、ジェフ・クーンズがしばしば比較される。クーンズの作品は、欲望を磨き上げ、無毒化し、誰もが安心して消費できる形へと整える。一方プリンスは、欲望をそのまま差し出しながら、後味の悪さを残す。
ここに、両者の決定的な差がある。クーンズが市場と完全な和解を目指したのに対し、プリンスは和解しきれなかった。彼の作品には、成功と失敗の境界が常に残り、評価は安定しない。その不安定さは弱点であると同時に、成立条件以後の時代における一つの誠実さでもある。
悪意でも善意でもない態度
プリンスの制作は、しばしば冷笑や悪意として誤解される。しかし彼は世界を嘲笑する立場に立っていない。広告やイメージを馬鹿にする側ではなく、それに反応してしまう側に自分を置いている。そのため作品は、完全な批評にも、単なる享楽にもならない。
この宙づりの状態は、期待と失望が同時に存在する態度から生まれている。世界を信じきれないが、完全に諦めることもできない。その矛盾を解消せず、作品として開くこと。それがプリンスの選んだやり方だった。
カツカレーカルチャリズムとしてのプリンス
ここで、カツカレーカルチャリズムという比喩が意味を持つ。カタログギフトのように完成度が保証された料理ではなく、カウンター越しにその日の油や手つきを感じながら食べるカツカレー。味は安定していないかもしれないが、そこには再現不能な「今日」が混ざり込む。
プリンスの作品もまた、理論的に完璧ではない。むしろダサさや古さ、イタさを残したまま提示される。しかしその未処理の部分こそが、成立条件を知りすぎた時代における体温の源になる。洗練されすぎた表現が即座に回収されてしまう環境の中で、居心地の悪さを引き受けることは、ひとつの抵抗でもある。

渦中に立つという選択
リチャード・プリンスは、アートの成立条件を外から操作する作家ではなかった。彼はその渦中に立ち、欲望と制度の間で揺れ続けた。その姿は決して模範的ではないが、人間的である。成立条件が完成してしまった後、なお表現を手放さなかった一つの姿として、彼の態度は今日的な示唆を与えている。 プリンスの作品が不快で、評価が割れるのは当然である。しかしその割れ目こそが、成立条件以後のアートに残された数少ない生の痕跡なのかもしれない。



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