混成の画面、意味の解放 ― デイヴィッド・サーレとカツカレーカルチャリズムの現在地

ポストモダン絵画の「無責任さ」を引き受ける画家
デイヴィッド・サーレは、1980年代アメリカ絵画を代表する作家として語られることが多い。ネオ・エクスプレッショニズム、ポストモダン、引用と断片、イメージの衝突。こうした語彙は彼の作品を説明するうえで一定の有効性を持つが、同時に重要な感触を取りこぼしてしまう危険も孕んでいる。サーレの絵画が放つ独特の魅力は、引用の巧妙さや意味の多層性以上に、「意味を引き受けない」という態度そのものに宿っている。
彼の画面には、女性像、記号的なモチーフ、抽象的なジェスチャー、広告的な形態が同一平面上に並置される。しかしそれらは、物語や主題へと統合されることを拒み続ける。象徴的読解は可能でありながら、決定的な意味へは収束しない。にもかかわらず、画面は空虚ではない。色彩は乾いており、構図は視覚的に心地よく、イメージ同士は軽やかに共存している。
ここで浮上するのが、カツカレーカルチャリズム的視点である。カツ・カレー・白飯という異なる文化的要素が、意味的統合を経ずに同一皿に並ぶカツカレーの構造と同様に、サーレの絵画もまた、多文化的・多様式的要素を無理にまとめないことで成立している。純粋性への志向ではなく、混成そのものが肯定され、余剰としての幸福が視覚的に提示されている。
ローゼンクイスト、カッツ、フィッシュルの間で
サーレの画面がジェームズ・ローゼンクイストを想起させることは自然である。広告的スケール、断片化されたイメージ、ポップ以後の視覚文化の導入。しかし両者には決定的な差異がある。ローゼンクイストの断片が巨大化を通じて政治性や批評性を帯びるのに対し、サーレの断片は意味との距離を保ち続ける。そこでは批評の鋭さよりも、配置の快楽が優先されている。
同時に、サーレの絵画はアレックス・カッツの平面的で乾いた感覚と、エリック・フィッシュルの心理的に湿度を帯びた暗さを併せ持つようにも見える。人物像はカッツ的に記号化され、感情を排した表情を持ちながら、その配置や切断の仕方にはフィッシュル的な不穏さが漂う。ただしサーレは、その不穏さをドラマや物語へと昇華させない。感情は示唆されるが、決して回収されない。
この「回収しない」という態度こそが重要である。サーレは、絵画が意味を提示し、鑑賞者がそれを理解するという近代的鑑賞モデルから距離を取る。彼の画面は解釈を誘発しながらも、その解釈に対して責任を負わない。ここで示されているのは無責任さの放棄ではなく、むしろ無責任さを引き受ける姿勢である。



観者に投げられた絵画 ― クラウス以後の態度
ロザリンド・クラウスが論じた、ポストモダンにおける「鑑賞者が作品を完成させる」という態度は、サーレの絵画と確かに共鳴している。ただし、サーレが理論的枠組みをなぞる形で制作していたと考えるのは適切ではない。むしろ彼は、理論化される以前に、感覚的・実践的にその地点へ到達していたと見るべきだろう。
サーレの作品は、意味を鑑賞者に委ねるというよりも、鑑賞者を意味生成の場へと投げ込む。そこでは正解も不正解も存在せず、解釈は生じても定着しない。鑑賞者は、自身の文化的記憶や身体感覚、視覚的快楽を動員しながら画面と向き合うことを余儀なくされる。
この意味で、サーレの絵画はきわめて身体的である。感覚や身体性が意味に勝るというより、意味が身体感覚の背後へ退いていると言ったほうが適切だろう。色彩、リズム、余白の緊張といった要素が、解釈以前に作用する。これは理論的ポストモダンというより、感覚的ポストモダンと呼ぶべき態度である。

『Achtung Baby』との共振 ― 聖典から余白へ
この文脈でU2の『Achtung Baby』を想起することは、時代感覚の上でも極めて妥当である。このアルバムは、80年代的な大義やメッセージ性、ロックの正統性から距離を取り、断片化、アイロニー、身体性、享楽性へと大きく舵を切った作品だった。ベルリンという分断と再編の象徴的都市で制作されたこのアルバムは、統一ではなく混成を選び、意味の強度よりも感触の強度を優先した。
サーレの絵画と『Achtung Baby』は、ともに「聖典を手放した後の表現」である。かつて信じられていた大きな物語や正当性を解体し、その代わりに矛盾を孕んだ断片的快楽を提示する。そこには皮肉が含まれているが、同時に生き延びるための誠実さも見て取れる。
重要なのは、それがシニシズムに陥っていない点である。サーレもU2も、意味を否定したのではなく、意味に従属することをやめた。その結果として現れるのが、余剰としての美味しさ、視覚的・感覚的な映えとしての幸福である。カツカレーカルチャリズムが肯定するのは、まさにこの余剰の感覚にほかならない。

教育としてのサーレ ― 教えない態度の効能
サーレの絵画が今日、教育的意義を持つとすれば、それは「教えない」という態度を明確に示している点にある。美術教育はしばしば、意味の読み取り方や文脈理解、評価基準の習得を重視する。しかしサーレの作品は、それらを意図的に宙吊りにする。理解できなさとともに立ち尽くす経験そのものが、否定されることなく提示される。
この態度は、情報過剰で即時的な意味づけが求められる現代社会において、重要な示唆を含んでいる。サーレの絵画は、「わからないままでいる」ことを身体的経験として肯定する。鑑賞者は受動的な理解者ではなく、能動的に配置を引き受ける存在となる。
カツカレーカルチャリズムの観点から見れば、サーレの絵画は「正しい食べ方」を提示しない料理に近い。混成された要素をどのように味わうかは、各自に委ねられている。その自由さこそが、サーレの絵画の教育的価値であり、同時代的な強度なのである。
サーレは、意味を手放すことで無責任さを引き受け、鑑賞者に作品を投げる。その投げられた先で生じる感覚や身体の反応、余剰としての快楽。それらすべてを含めて、作品は成立する。ここでいう完成とは、統合ではなく、開かれた状態そのものを指している。

「映え」の前史としてのサーレ ― SNS時代への先見性
サーレの絵画が、今日のSNS時代と強く共振して見えるのは偶然ではない。彼の画面は、物語や主題の完結性よりも、瞬間的な視覚的インパクト、配置のリズム、断片の並置によって成立している。これは、スクロールされる視覚体験を前提とした現代のイメージ環境と驚くほど親和的である。
SNSにおける「映え」とは、必ずしも意味内容の深さを指すものではない。それは、即時的に感覚へ届く強度、説明なしでも成立する視覚的快楽、そして文脈から切り離されても機能する表層性によって支えられている。サーレの絵画は、すでに80年代の段階で、この条件を先取りしていたと言えるだろう。
重要なのは、サーレが単に「派手な画面」を作っていたわけではない点である。彼の作品が映えるのは、色彩や構図の巧みさ以上に、意味の未回収性によってである。画面は常に「途中」であり、解釈が閉じられない。そのため、何度見ても固定化されず、視覚的な新鮮さが持続する。この構造は、繰り返し消費され、再解釈され、再配置されるSNS的イメージ循環と重なっている。

ここで再びカツカレーカルチャリズムの視点が有効になる。SNS的映えとは、純度の高い単一文化の表現ではなく、異なる要素が軽やかに並び、意味の統合を拒みながらも「美味しそう」に見える状態に他ならない。サーレの画面における人物、記号、抽象、引用の共存は、まさにこの混成の幸福を体現している。
さらに言えば、サーレの絵画は「切り取られても成立する」強度を持っている。画面の一部だけを見ても、それが一つのイメージとして機能する。この特性は、部分的に共有され、引用され、再文脈化される現代の視覚文化において決定的である。彼の作品は、もともと全体性よりも断片性を前提としているため、デジタル的断裁に耐性がある。
同時に、サーレの先見性は、映えに対する批評性を内包している点にもある。彼の画面は美しく、軽やかでありながら、どこか居心地が悪い。その理由は、意味が与えられないまま放置されているからである。SNS的映えがしばしば空虚さを孕むのと同様に、サーレの絵画もまた、快楽と不安を同時に提示する。
この点でサーレは、映えを肯定しながらも、その無責任さを隠さない作家である。意味を与えないこと、統合しないこと、説明しないこと。その態度は、今日のイメージ過剰社会において、結果的に誠実さとして立ち上がる。
サーレの絵画が現在もなお古びないのは、ポストモダンという歴史的文脈に閉じていないからである。彼の作品は、意味よりも感覚が先に立ち、統一よりも配置が優先され、完成よりも開かれた状態が維持されている。その構造自体が、SNS時代の視覚文化を先取りしていたのである。
こうして見ると、サーレは単なる80年代の代表作家ではない。意味の過剰から距離を取り、混成を肯定し、映えと不安を同時に引き受ける態度を、いち早く絵画の中で実装した作家として、現在進行形の問題系に接続される存在なのである。



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