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身体は逃れない ― 『山猫』と『ヴェニスに死す』から読むヴィスコンティ

ルキノ・ヴィスコンティ ルキノ・ヴィスコンティの『山猫』と『ヴェニスに死す』は、一見すると題材も時代も異なる作品である。前者は19世紀半ばのシチリアを舞台に、ガリバルディの統一運動という歴史的転換期を背景とし、後者は20世紀初頭のヴ...
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才能が宿ってしまう身体 ― 「国宝」から考える表現の重さ

映画「国宝」を見ている途中から、マルセル・カルネの『天井桟敷の人々』の記憶が不意に立ち上がってきた。物語の細部が似ているわけではない。呼び起こされたのは、才能や芸が人に与える自由ではなく、むしろ人を縛り、消耗させ、個人の人生を超え...
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知覚が先に動いてしまう映画 ― 新海誠作品とアニメーションという前提

先日あらためて新海誠の『君の名は。』『天気の子』を見た。これらの作品には、明確な主張がある。世界は分岐しているが、選ばれるのはこの身体、この関係、この一回であるということ。多世界的な想像力と、どうしようもなく一回性を引き受ける身体...
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なぜ、あの映画はいまの感覚とつながってしまうのか ― アルノー・デプレシャン『そして僕は恋をする』について

もう30年近く前に見たアルノー・デプレシャンの映画『そして僕は恋をする』を、なぜいまになって思い出したのか。しかも、単なる記憶の喚起ではなく、現在考えている問題意識と不思議なほど滑らかにつながってしまう感覚として。それは懐かしさで...
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