カツカレーカルチャリズム画家列伝98 ~中村宏 編

アート

恐れの上の信頼 ― 中村宏の虚無と絵画空間

戦争の気配を帯びた荒野や列車、瓦礫の広がる遠景の手前に、突然漫画のような顔が現れる。目は一つしかなかったり、太い線で輪郭だけが強調されていたりする。その顔は泣いても怒ってもいない。感情の出口が閉じたまま、ただそこに置かれている。そのとき画面には、重い歴史的背景と軽い記号的存在が同時に立ち上がり、観る者はどちらにも完全には寄りかかれない奇妙な均衡の中に置かれる。この均衡こそが、中村宏の絵画を特異なものにしている。

出典:Artpedia/中村宏

中村の戦争的イメージは、直接的な体験の記録ではない。むしろ彼の世代にとっての戦争は、記憶の断片として後方から迫る出来事であり、現実の重さと想像の空白が混在したものだった。そのため彼の画面には、写実的な背景が描かれながらも、そこに突然漫画的な顔や単眼の記号が侵入する。遠近法の整った奥行きと平面的な線描が同時に存在することで、画面は一見不安定に見える。しかし繰り返し見るうちに、その不安定さが崩壊ではなく設計であることに気づく。背景は堅牢に組まれ、前景の記号は意図的に配置されている。秩序の上に逸脱が置かれているのであって、逸脱が秩序を破壊しているのではない。

出典:Artpedia/中村宏

このとき手前に置かれた顔は、登場人物というよりも視線の装置として機能する。それは観客の代理であり、同時に画面内部の目撃者でもある。写実的な戦争の光景を直接見るには、感情が過剰に反応してしまう。だが記号的な顔を一枚挟むことで、観る者は一度感情を空にし、その面を通して光景を見ることができる。この「空」の状態が、彼の作品に漂う虚無の感触を生む。とはいえそれは、冷笑や絶望としての虚無ではない。むしろ受け止めるための空白であり、仏像や能面のように、強い出来事を受容する面としての虚無である。

この虚無の質は、日本的な空間感覚に近い。神社や森に入ったとき、人はそこに何もないとは感じない。むしろ何かが宿る余白としての空を感じる。中村の漫画的な顔もまた、何かを欠いた表情ではなく、何かを受け止めるために空けられた表情として機能する。戦争や近代の暴力性といった恐れを、直接的な感情で処理するのではなく、一度空の面に預ける。その面を通して観客は画面に入り、同時に距離を保つ。ここに、怖いもの見たさと敬意が同居する独特の感覚が生まれる。

重要なのは、この虚無が絵画そのものの否定には向かわない点である。画面の構図は安定し、空間は成立し、描写は丁寧に積み重ねられている。世界は不安定であっても、画面は保たれる。この関係が、彼の作品に特有の信頼感を与えている。多くの戦後美術が表象の不信や絵画の死を意識し、皮肉や批評性へと傾いたのに対し、中村は絵画の回路が観客に通じることを疑わない。だからこそ、写実、デフォルメ、漫画的線描といった異なるレベルの表現を同一画面に並置しても、画面は崩壊しない。むしろそれらは、共有可能な入口として機能する。

出典:Artpedia/中村宏

この並置の感覚は、カツカレーカルチャリズムの視点から見ると非常に示唆的である。カツカレーカルチャリズムとは、異なる文化層や様式が混ざり合いながらも、それぞれの味を失わず共存する状態を指す比喩的概念である。中村の画面では、重い歴史性と軽い漫画線、写実と記号、恐れと共有が、単なる折衷ではなく並置として成立している。カツとカレーが互いを打ち消さず、むしろ同時に味わわれるように、彼の絵画では異なる表現の層が互いを支え合う。その結果、観客はどちらか一方に回収されることなく、複数の感覚を同時に保持したまま画面にとどまることになる。

このとき虚無の顔は、混在を可能にする中立的な面として働く。感情を固定せず、判断を保留したまま、観る者を画面の前に留める。その留まりの感覚が、絵画への信頼と結びついている。描く行為が観客につながるという確信があるからこそ、彼は表現の振れ幅を恐れない。写実的な戦争の描写から、比率の崩れた顔や単眼の記号、漫画的な線描へと自在に移行しながらも、画面は一貫して観客に開かれている。この開かれ方が、シニカルな批評性を回避し、畏敬に近い感情を呼び起こす。

出典:Artpedia/中村宏

中村の絵画空間に置かれた恐れは、破壊的な力としてではなく、信頼の上に配置されたものとして機能する。近代や人間への不安が描かれていても、絵画そのものの秩序は揺らがない。むしろその秩序があるからこそ、恐れを受け止める余白が生まれる。虚無の顔はその余白の象徴であり、観客が画面に入りつつ距離を保つための装置である。そこには、伝わることへの前提的な肯定がある。絵画はまだ通じる、という信頼である。

出典:Artpedia/中村宏

この信頼は、単なる楽観ではない。恐れを知りながら、それでも画面を保つという態度に近い。だから彼の作品は、不気味でありながら拒絶を招かない。むしろ何度も見たくなる静かな引力を持つ。虚無の顔がそこにあることで、観客は自分の感情を過剰に消費することなく、画面の中に留まり続けることができる。恐れと信頼が同時に存在するこの空間は、戦後日本の絵画の中でも独特の位置を占めている。

中村宏の画面は、恐れを消し去るのでも、告発へと収束させるのでもない。恐れを配置し、その上に絵画の秩序を置く。そこに生まれる虚無は、空白でありながら受容の面であり、観客が通過するための入口である。異なる要素を同時に保持する並置の空間としての絵画は、カツカレーカルチャリズム的な感覚とも響き合う。重さと軽さ、歴史と記号、恐れと信頼が同時に存在するその空間は、現代の多層的な文化状況においてもなお有効な視座を提供している。恐れの上に置かれた信頼。その均衡の中で、中村の絵画は静かに開かれ続けている。

出典:Artpedia/中村宏

中村の絵画空間に置かれたこの「恐れの上の信頼」は、同時代以降の日本の表現と照らし合わせると、その特異な位置がよりはっきりと見えてくる。

たとえば工藤哲巳の作品では、虚無は身体や環境を侵食する力として現れ、秩序そのものが崩壊へ向かう。密室的な空間の中で有機物と人工物が混ざり合い、生命と廃棄の境界が溶けるとき、作品は世界の持続を保証しない。虚無は配置されるのではなく、作品を侵す。そこでは観客は安定した足場を失い、存在の不確かさに直接触れることになる。一方で、中村の画面では恐れや不条理が描かれながらも、構図と空間の秩序は最後まで保たれる。虚無は破壊の力ではなく、受け止める面として置かれ、観客が通過するための緩衝地帯となる。両者に共通する暗い小部屋の感覚は、世界の危うさを感知する点では重なるが、工藤がその危うさに没入するのに対し、中村はそれを画面上に配置し、保たれた秩序の中で見続ける位置を確保する。 また、暗がりの奥に何かが潜むような空間感覚は、宮崎駿の映像世界ともゆるやかに響き合う。宮崎の作品における森や廃墟、洞窟の内部は、恐れと敬意が同時に存在する場として描かれる。そこでは異形の存在や得体の知れない気配が現れながらも、空間そのものが完全な絶望へと閉じることはない。観る者は不安と同時にどこかで守られている感覚を持つ。中村の画面に置かれた虚無の顔もまた、恐れを増幅させるのではなく、受容の面として機能する点でこの感覚に近い。ただし宮崎の空間が物語の運動によって回復や変容へと向かうのに対し、中村の絵画は物語的解決を持たない。虚無は解消されず、しかし持続可能な距離の中で保たれる。恐れの上に秩序を置くというこの態度は、破壊でも救済でもない第三の位置として、戦後以降の日本的想像力の一つの到達点を示している。

出典:Artpedia/中村宏

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